石垣パインのあゆみ


- 1930年 八重山支庁が沖縄県庁を通してスムースカイエンを導入するが栽培失敗。
- 1933年 石垣島に入植した台湾人がパインの苗約60本を嵩田地区にて試植する。
- 1936年 20万本の種苗の輸入に成功する。
- 1945年 終戦後、台湾に代わり、主要缶詰パイン産地として沖縄が脚光を浴びる。
- 1958年 「ハワイ系」が導入される。缶詰加工場は八重山で8工場。
- 1972年 沖縄日本復帰。生果用パインの増産開始。
- 1990年 パイン缶詰および果汁の貿易が自由化される。
- 1996年 八重山におけるすべての缶詰加工場が閉鎖される。
- 1999年 「ソフトタッチ」「ハニーブライト」が品種登録。
- 2004年 「サマーゴールド」「ゆがふ」が品種登録
- 2009年 「ゴールドバレル」「ジュリオスター」が品種登録
- 2017年 八重山地域のパイン出荷量は3,480トン。うち生食向けが3,320トンです。
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パインはどこからきたのか。
1493年にコロンブスがカリブ海のグァドループ島で見つけたのが最初の記録。200年の間に熱帯諸国に伝わる。16世紀後半には台湾、フィリピンなどに渡る。沖縄に伝わるのは1866年、座礁したオランダ船から石垣島に漂着した。漂着したパインは川平に植えられた。
本格的に沖縄でパインを作る
1888年、沖縄で初めて本格的なパイン栽培が行れる。国頭郡長朝武士千城が有刺紅皮種の試作を小笠原諸島から導入。1927年、嘉数宜有が台湾から国頭群本部町伊豆味にスムースカイエン種が導入され、1930年には八重山支庁が種苗を持ち込む。
台湾からの種苗導入
1935年、日本植民地下にあった台湾のパインの缶詰工場の関係者と53戸の栽培農家が石垣島に移住。島の有力者と大同拓殖株式会社を起こしたのが、沖縄パイン産業の起点。大同拓殖株式会社は、石垣島に150ヘクタールの土地を借り、パインの生産を始める。同年、種苗10万本導入するも、物防疫法に抵触したため焼却処分。1936年に20万本のパイン種苗を輸入した。その後、石垣島のパイン栽培はさかんになる。1938年に11ライン工場で缶詰出荷は500ケース。1939年に2500ケース。1940年には5000ケース以上の生果が生産されていた。
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敗戦で台湾を失う。
パインは第二次世界大戦の体制下の食料増産政策で食糧作物への転作をする。それにりほとんどのパインは壊滅する。敗戦により缶詰産地であった台湾を失う。そこで沖縄でのパイン生産が期待される。1946年に、残っていた種苗をもとにパインの増殖が行われる。そして1948年の沖縄自立経済協議会の発足を機に再興する。
缶詰工場の建設。
台湾から種苗の導入や缶詰加工場を建設する。琉球政府は、1955年にパイン増産5カ年計画を策定し、1969年にパイン産業振興法を制定。農家の経済の安定・製造コストを減らす・品質の向上および輸出の促進が目的。生産・加工・流通にいたる施策を展開をした。パイン缶詰は、輸出産業として有望視される。缶詰用パインの需要の拡大により、パインの種苗の値段は果実の値段を上回っていた。

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栽培法の確立とパインブーム
国頭マージは沖縄本島の中北部および八重山諸島に広く分布する土壌。強酸性の土壌は作物を育てるには不向きな土。パインは酸性の土壌を適地とする。パインが栽培できるようになることは国頭マージの土壌を持つ山村を活気づけた。農家はもとより農業外からも栽培に参入し、「パインブーム」と言われる社会現象にまでなる。そのうちパインが缶詰工場の処理能力を超えて作られるようになる。沖縄政府は缶詰加工場の増員や収穫時期を調整する必要があった。
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3度の自由化。
パインはサトウキビに次ぐ基幹作物と言われるまでに成長。しかしパインは常に自由化の波にさらされてきた。生果は1961年に、冷凍パインは1971年に自由化された。この時期の缶詰輸入は数量割り当てによる国境保護措置がとられていた。しかし数量の規制がない、輸入冷凍パインを原料としたパイン缶詰加工が増加。輸入冷凍パインの缶詰加工は沖縄産缶詰の市場を圧迫した。1970年代まで加工用パインの生産は5万トンを維持していたが、1980年代には3万5千トンまで減少した。
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缶詰の終わり、生果の始まり。
パイン栽培は農家の高齢化、輸入自由化に伴う先行き不安があった。更に追い打ちをかけたのが1990年の缶詰および果汁の自由化。自由化の対策などが行われたが、八重山では1996年にすべての缶詰加工場が閉鎖された。2000年には1.2万トンまでパインの生産量が減少する。石垣島を始めとする八重山地域はその後、缶詰用パインの生産から生果用パインの生産に力を入れていく。これが現在の石垣パインになる。